作品について
光の目
東日本大震災後、今を生きる日本/日本人の多くのアーティストは、
一種の精神的な空白状態に落ちいったと思う。
このような未曾有の大惨事が起きる時、アートにはどんな役割があるのだろう。
今一度、表現することの意味を問いなおさざるを得なかった。
ドイツで生活している私には、日本社会の「今」に外側からいくら視線を注いでも、
構造としての制度の問題しか見えてこないというもどかしさがあった。
私はよく、目をとじて、想像した。
人々の生活が一度に破壊され、流浪を余儀なくされる状況を。
幾千幾万の、誰かが生きてきた記憶の層が、見ることのできない放射能に汚されていくこと。
人々の、家屋の、そして地面や草木や、モノたちの心持ちを。
それは目には見えない“ビジョン“となって、私の意識空間を満たしていった。
日常に穴があく瞬間。
今まで地面だと思って踏みしめていた何かに亀裂が入る瞬間に
私たちは改めて、ものの多角的な側面を発見するのだろう。
「新しい天使」の目は大きく見ひらかれている。
無人になった部屋を訪れる光の目は、その見ひらかれた天使の目なのかもしれない。
(田中奈緒子)
安定性を失ったその瞬間、時が止まったかのようなあるひとつの部屋に、ぽつりと光の点が浮かぶ。
光の点は、ひとつの自律した目となって、あたかも宇宙空間を旅する衛星のように、
軌道に乗って動き出す。
この部屋は、ひとりの人間の思考空間なのだ。
光の探索機は、自律したひとつの眼となって部屋を旅し、
私たちの意識世界という宇宙空間にひそむ未知の領域をあばきだしていく。
記憶が影になってマグマのように溶け出し流れでる。
顕在化するファンタジー。
思考は、記憶は、感情は、空間を持っている。
(アダム・シチラク)
田中によるこの ”イメージ・ノイズ・動きの装置” は、驚くほどに「思考という現象」に近づいている。
その鋭い洞察は、光の輪と影のイメージとともに空間をただよい、つかみ取ることができない...
が、次の瞬間にはそこにある!
そこにある、突然、科学さえも人間の感覚器官で捉えられない何かに縛られているかに見える瞬間に。
そこにある、論理的に理解可能な定義の境界線がうやむやになる瞬間に。
かつての、元来の科学の驚きに立ち返らされる瞬間に。
『Absolute Helligkeit』は、震え鼓動する皮膜の身体となって、人々を観察者の位置に引き上げる。
田中奈緒子の、この「科学と美術との認識論的コラボレーション」は、
これらすべてを巧みに体験させることに成功している。
(フランチスカ・オーメ/批評サイト“アルティベルリン“)